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闘うトップ2013年11月号
独自の排水浄化装置を普及させ世界中にきれいな水を届けたい(株式会社アイエンス・社長 吉田憲史氏)
1964年、吉田社長は兵庫県に生まれた。県立神戸甲北高校を卒業し、83年、業務用清掃用品などを扱う中堅商社に入社。東京、名古屋、姫路の各支店に勤務した。
95年1月、姫路で阪神・淡路大震災に遭遇。故郷・神戸の壊滅的な被災状況を見て自分の無力を痛感し、それまでの安穏(あんのん)な会社員生活に疑問を感じるようになったという。何か復興に携わる仕事がしたいと、同年3月、勤務先を辞めて神戸市内の建設関連会社に転職。だが、建設関係はまったくの門外漢で、もどかしさは募るばかりだった。
その後、独学で勉強を重ねて一級建築施工管理技士の資格を取得。CADも独習して身につけると、98年、設計の腕を見込まれ、兵庫県内のホテルの厨房排水処理施設について、その改修工事を依頼された。浄化槽の悪臭が、建物内に漏れ出していたのだ。当然、排水処理は未経験だったが、これまた独学で勉強し、「見よう見まね」で散気管を製作。施工すると数時間後には成果が表われるほどで、同ホテルの排水処理費用は従来の6分の1に軽減された。この散気管が、アクアブラスターの原型となった。
この1件が評判を呼んだのか、続いてより大きなホテルから同様の依頼を受けたが、これも見事にクリア。手応えを感じた吉田社長は2000年、独立してアイエンスを創業した。だが、それは苦難の始まりだった。ホテルでの実績を武器に営業を繰り返すが、無名のベンチャーではプレゼンの場さえ与えられず、ほぼ半年間は門前払いが続く。その後、代理店経由でいくつか仕事を獲得できたものの、ミスが重なる不運にも見舞われ、思うような成果は出なかった。やがて、2年後には創業資金の2,000万円が底を尽き、吉田社長は苦境に立たされた。
◇ ◇ ◇
もう、どん底でしたね。でも、ありがたいことに、このとき財団法人ひょうご産業企業活性化センターから出資していただくことができて、協調融資と合わせて3,800万円ほどお金ができました。以降、それをもとに新産業創造研究機構や島津製作所など、私どもの技術にご理解をいただいていた研究機関や企業の協力を得て、実験を繰り返しました。データを蓄積することで理論を補強し、排水処理の精度を高めるためです。
実は、排水処理の専門家ではなかった私がアクアブラスターを開発することができたのは、趣味のおかげなんです。ウソのような本当の話です(笑)。
役立った趣味の1つは、園芸です。あるとき、「排水処理は、基本的に堆肥(たいひ)処理と同じだよ」と教えてくれた方がいたんですね。酸素の供給がポイントになるということです。堆肥処理なら、ある程度はわかります。その考え方を応用すれば、汚水も処理できる。そう気づいたのが、1つの突破口になりました。
いま思えば、そうして「搦(から)め手」からアプローチしたのがよかった。もし、排水処理を真正面から勉強していたら、おそらく従来の計算式や研究に足を取られて、アクアブラスターのアイデアは発想できなかったと思います。