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闘うトップ2014年1月
創業時の新鮮な気持ちを受け継ぎ浜松らしい「地ソース」をつくりたい(鳥居食品株式会社・社長 鳥居大資氏)
経営を受け継ぎ自身の錯覚に気づく
私どものような零細企業は、様々な面で制約を受けます。もし、制約がなかったらと、それをうらめしく思うこともありましたが、素直に現状を受け入れるしかない。できる範囲で、最大限の努力をするしかないんですね。
ですから、ありがたいことに、最近、零細企業の弱みを強みに変えたとお褒(ほ)めいただくこともあるのですが、正直なところ、私自身にそこまでの意識はありませんでした。もし、そうなっているとしたら、それはあくまで結果論ではなかったかと思っています。何とかして会社を存続させたいという気持ちで、必死にあがいてきただけなんです。
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1971年、鳥居社長は謙一氏の長男として浜松市に生まれた。幼少時から海外勤務に憧れ、慶應義塾大学に在学中、交換留学でカナダ屈指の名門ブリティッシュコロンビア大学に学ぶ。93年、慶大経済学部を卒業すると、米国のスタンフォード大学大学院に進み、修士課程を修了した96年、帰国して三菱商事に入社。大学時代から将来の事業承継を意識し始めていたこともあって、食品関連の国際貿易部門を希望したが、配属先は与信管理などを担当する審査部門で、財務分析と商事法務に従事した。
しかし、年来の夢は捨てがたく、2000年、GE(ゼネラル・エレクトリック社)に転職。当時のジャック・ウェルチCEO肝煎(きもい)りの監査組織に配属され、北米とアジアを行き来した。そして、03年、闘病生活に入った謙一氏の後継者として鳥居食品に入社。05年、社長に就任した。
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仕事柄、私は様々な会社の数字を精査してきました。何と言っても、財務諸表は経営の基本です。それを読み解けば会社の体力も将来性もわかり、経営者の力量も想像がつく。すっかり経営がわかったような気になって、大変にお恥ずかしいのですが、いつしか自分も経営に力を発揮できるのではないかと考えるようになりました。
ですから、父が倒れたとき、準備不足ではあったものの、私にとって家業は格好の素材と映りました。初めて手がけるには規模も手ごろで、課題が多いだけにやりがいも大きい。もちろん、家業を実験台のように考えていたわけではありません。その隆盛を心底から願って意気込んだわけですが、そこに「腕試し」に挑むような不謹慎な高揚感が混じっていたことも事実だと思います。まったく浅薄(せんぱく)で、お恥ずかしいかぎりです。
経営に万能の方程式があるかのような誤解と、根拠のない自信が錯覚であったと気づくまで、そう時間はかかりませんでした。当たり前ですよね。とにかく、新しいことに挑戦しようとすると、途端に思うようにいかなくなる。コミュニケーション不全です。それは、社員と私の世代間ギャップも一因だったと思います。また、当然ながら、私の経験不足も大きな要因でした。
家業とはいえ、それまで私がいた世界とはまったくの別世界ですから、私の頭の中では自社がめざすべき方向性が、ある程度、描けていたとしても、それを日常業務のレベルで指示することができない。その日、どなたと会って、どんな話をしたらよいのか、という具体的な指示ができないわけです。それでは社員も戸惑うし、私もどうしてよいのかわからない。
結局、性急な方針転換や社内改革は非現実的だと気づきました。まずは従来の慣習とか製法などをじっくりと勉強して、私自身が経営者として成長しなければ、何も前に進まない。しばらくは安全運転に徹しようと考えました。
でも、その間、ただ従来の仕事を踏襲(とうしゅう)するだけではありませんでした。たとえば、そのころの経理処理はまだ手書き伝票で、商品の発送業務も担当者が自(みずか)ら配達していました。そのあたりは、新しいやり方に変えやすかったこともあり、パソコンを導入したり、採算性の低い仕事を整理したりして、少しずつではあっても変えて、将来の改革に向けた下地づくりに取り組みました。
そうするうち、叔父たちをはじめ、ベテラン社員が引退して、新しい人材に入れ替わっていきました。いま、社員の平均年齢は30代半(なか)ばくらいです。毎年、1つは新商品を開発するようになったのは、そうして世代交代が進んでからのことですね。