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闘うトップ2014年5月号
「おもろいタクシー」で人と街とを繋ぐ担い手になる(近畿タクシー株式会社・社長 森﨑清登氏)
ロンドンタクシー、スイーツタクシー、お花見タクシー、神戸ビーフタクシー……。
数々のアイデア観光タクシーを神戸の街に走らせてきた森﨑社長。
そこには生まれ育った神戸市長田区の震災復興にかける思いが込められていた。
一昨年、近畿タクシーは運行する神戸の有名スイーツ店を巡るスイーツタクシーや、ジャズスポットに案内するジャズタクシーに「My Qpit(マイキューピット)」という統一ブランドを冠した。デザイナーに依頼しハートをかたどったブランドロゴなどを作成、ドライバーの名刺や車体にロゴをあしらった。その設立趣意書の冒頭には「タクシーは人と街を繋ぎ、それぞれに“しあわせ”をもたらす『キューピット』のような役割があると考えます」とある。この言葉に森崎社長の思いが集約されている。
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41歳のときに「タクシーこそが天職や」と悟りました。その3年前に導入した「ロンドンタクシー」がきっかけとなって経済界の人や文化人の方々など、いままでお付き合いのなかった人とたくさん出会うことができた。自己表現がタクシーでできると思うようになったからです。実はそれまで、タクシー業がイヤでイヤでしようがなかった。
大学を出て酒造メーカーで11年勤めました。その会社でのサラリーマン生活に先が見え転職を考えていたときに、跡継ぎがいなかった妻の実家を継いでみようと思ったのです。経営者になれば、サラリーマンと違って自分の考えで何かがやれると夢をもちました。でも「跡を継ぐ」と言ったとき、喜んでくれたのは社長だった義父だけで、友人からは「お前には向いてない、やめとけ」と口を揃えて言われた。それだけイメージの悪い業種だったのでしょう。
覚悟はしていましたが、入社してみるとすぐに夢も希望も吹き飛びました。タクシー会社は、営業、サービス、回収まですべてドライバーがこなし、会社はそのまとめをやるだけ。言うなれば労務管理だけの会社です。当時は行政の規制も厳しかったので、経営者が腕を振るうような場面はほとんどなかったんです。
ドライバーも個性的な人間がいっぱいいた。入社してすぐに、ドライバーの不始末がもとで警察の取調室に行きました。常務の肩書きをもらって、給与計算や経理などの事務方を務めていたのですけど、私に回ってくる電話は苦情と事故処理ばかり。なかには夜も眠れないくらいのやっかいなトラブルもありました。普段はたいした仕事もなくて、事務所でぽつねんとしているんですけど、1本電話が入るとあちこち駆けずり回らないかん。常に不安と隣り合わせで精神的にこたえましたね。
それ以上に意欲を削(そ)がれたのが、仕事が積み重なっていかないことでした。当時、当社はすべて流し営業でしたから、顧客名簿もなかった。どんな仕事をしてもあとに残るものが何もないのです。前の会社では宣伝広告や商標管理をやっていたのですが、その知識を活かすところもない。これはタクシー会社に「どうせお客様はタクシー会社なんてどこでもいいんや」という勝手な思い込みがあったからです。本当はお客様はタクシー会社を選びたがっていたはずなんです。