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闘うトップ2014年8月号
扱いやすいリヤカー「軽car(カルカー)」で地方発のものづくり力を証明したい(株式会社中村輪業・社長 中村耕一氏)
廃業を覚悟するも「軽car」で復活
そうしたなかで、95年、私が28歳のときに家業を継いだのですが、その後も毎年、売上が一割ずつ減っていくような状態で、7年経った2002年ごろには半減していました。正直、もうダメだと思いました。子供の数が減って、お客様と言ってもお年寄りばかりだし、そもそも人がいない。親父には店を閉めることを許してもらって、私は就職先を探し始めました。
でも、この島原半島には働き口もありませんから、単身赴任を覚悟で佐世保や福岡あたりまで範囲を広げて採用試験を受けたものの、なかなか採用してもらえませんでした。6回も7回も不採用通知を突きつけられると、さすがに落ち込みます。気がつけば、海を眺めていることが多くなっていました。道路を挟んで、店の目の前が島原湾なんです。まいったなあと思いながら、その日もぼんやりと海に目を向けていました。
すると、ゴミ袋を積んだ一輪車を押しながら、道路をよたよたと歩いてくるおばあちゃんの姿が私の視界に入ってきました。もちろん、昔からよく知っている方で、ゴミを捨てに行くところだったようですが、鉄製の一輪車は重く、いまにも転びそうなんです。
リヤカーで運べばいい、と声をかけたのですが、リヤカーみたいな重いものは使えない、と言い返されました。
「おいがつくってやるけん」
思わず、そう言ってしまったのが、そもそもの始まりです。いったん口にしてしまった以上、頬かぶりするわけにはいかないし、もしつくることができなかったら、狭い地域ですから、何を言われるかわからない(笑)。
それからリヤカーの構造や鋼材について勉強したり、知人に頼んで溶接の技術を教えてもらったりして、高齢の女性でも扱えるリヤカーを研究し始めました。仕事の片手間につくってあげようという程度にしか考えていなかったのですが、難しかったですね。
設備がありませんから、金属製のパイプは素手で曲げました。自転車のタイヤに空気を入れるエアコンプレッサーの部品をはずして、そこにパイプを押し当てて、ぐっと力を込めると、わりときれいに曲がるんです。もちろん、何百回と失敗しましたけれど。
また、伝手(つて)をたどっていろんな専門家に教えを乞いましたが、どなたも例外なく驚きました。いまどきリヤカーなんて正気か、と。そうした反応は、試作品が完成してからも続きました。
ただ、約束したおばあちゃんに試作品を届けると、「軽かねー」と喜んでくれました。販売を始めてからも、実際にリヤカーを手にした方は「軽かー」と感心してくださって、そうした声がどれほど励みになったかわかりません。感謝の気持ちを込めて、「軽car」と名づけました。