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闘うトップ2014年8月号
扱いやすいリヤカー「軽car(カルカー)」で地方発のものづくり力を証明したい(株式会社中村輪業・社長 中村耕一氏)
出口のないトンネルはない
いまも忘れられないのは、その年のランタンフェスティバルです。毎年、長崎市内の中心部で行なわれるイベントで、100万人の観光客が訪れるといわれますが、期間中のある日、市内でも最も繁華なアーケード街を「軽car」を引いて歩きました。しかも、荷台には私の子供を3人乗せていましたから、ずいぶん目立ったと思います。3人とも嫌がっていましたが、とにかく「軽car」の存在を広く知っていただくためなら、何でもしました。
そうして、ちょうど半年ほど経ったころ、すでにもう何回もお訪ねして顔見知りになっていた農家のご主人に、初めて「軽car」をご購入いただきました。うれしかったですね。心を込めて、全力でつくりました。
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江戸時代の大八車にルーツをもつリヤカーは、大正時代、日本人によって考案された。一時はわれわれの日常から姿を消したが、それを現代によみがえらせた「軽car」は、日本におけるものづくりの伝統を体現しているようでもある。その商品力が各方面で好評を博し、成長軌道に乗った中村輪業の年商は1億円に迫った。
だが、同社は再び思わぬ試練にさらされることになった。11年の東日本大震災により受注が白紙に戻り、損失を被ってしまったのだ。資金繰りが圧迫され、事業は一時的に縮小せざるを得ず、8名にまで増えていた従業員は2名に削減した。そうした苦境にあって、中村社長は被災地の宮城県南三陸町に「軽car」を30台、寄贈した。
震災の影響は大きかったが、「軽car」を評価する声は依然として高く、景気の回復に従って、現在では受注状況も回復しつつある。
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大震災後は、最悪の事態も考えたほどでした。正直に告白すると、受注が白紙に戻ったことで、取引先を恨(うら)めしく思ったこともあります。でも、それからしばらく経ったころ、心の中で取引先を一方的に責め続けている自分に気がついて、急に情けなくなりました。誰かがあっけなく左右してしまうほど、自分の人生って弱かったのか、と。
そんなはずはない、と思いました。取引先はともかく、私にも落ち度があったはずなんですね。
実際、仕事をいただくと、深く考えもせず製作に取り組んでいたけれど、それは次もまた仕事をいただけるだろう、という根拠のない思い込みがあったからです。一種の惰性(だせい)でしょうね。そんな気の弛(ゆる)みがなかったらキャッシュフローにも配慮したはずで、1つひとつの取引に慎重さを欠いたのは、やはり私の責任なんです。自分を棚に上げて責任を外部に求めていても、経営者としての成長はありません。授業料は高くついたけれど、よい勉強になりました。
一時は目の前が真っ暗になって、再び光が差すことはないとさえ感じました。でも、トンネルには入口があれば出口もある。たとえ光が見えなくても、走り続けていると、なんとなく空気のゆらぎが感じられて、そのうちはっきりと風を実感できるんです。風さえ感じられればしめたもので、そちらに向かって走っていくと、いつか必ず光が見えてくる。どんなに長いトンネルにも、必ず出口があることを学んだような気がします。
苦しいときほど、ブレてはいけない。経営者にとって最も大切なことは、どんなに不安でも、自分を信じ続けることだと思います。「軽car」を多くの人に喜んでもらって、過疎の町でも全国に通用するものづくりができることを証明したいですね。