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闘うトップ2013年6月号
伝統的な製法で品質にこだわり納豆を大阪の食文化にしたい(小金屋食品株式会社・社長 吉田恵美子氏)
吉田社長は3人姉妹の長女で、物心がつくころ、すでに父は念願の自社工場を建て、母とともに連日、早朝から深夜まで納豆づくりに没頭していた。
創業者の金司氏は、1936(昭和11)年に山形県米沢市で生まれ、16歳の年、単身、大阪に出て、米沢納豆という納豆メーカーの工場で働き始めた。61年、結婚を機に独立したものの、生産設備を整える余裕がなく、自宅でわらを梳(す)き、炊いた大豆を包んで、温度計を手にこたつで納豆をつくったという。地道に顧客を増やし、67年、待望の工場を門真市に建設した。
しかし、5年後、工場が火災に見舞われて全焼。金司氏は修業時代の先輩の工場に間借りして事業を再開し、早くも翌年には、大東市に現在の本社工場を再建した。そして、工場の2階で家族5人の新生活が始まった。
82年、地元の商業高校を卒業した吉田社長は、文具メーカーのサクラクレパスに入社。事務職として6年間、勤務したのち、結婚にともない退職した。その後、専業主婦として3人の子供を育て、子育てがひと段落すると、94年ごろからパート勤務を始め、近隣のスーパーや不動産会社などで働いた。
転機となったのは、03年、体調を崩した金司氏にがんが発見されたことだった。闘病生活を余儀なくされた父に代わり、小金屋食品の経営を支えるべく、吉田社長は専務取締役に就任。経理を担当した。しかし、金司氏の病勢はすでに末期に至って、同年末、67歳で鬼籍の人となった。
本人が告知を希望しなかったこともあり、金司氏は最期まで現場復帰の意欲を失わなかったが、結果として、それが後継者の育成と技術の伝承を阻むことになる。納豆釜の扱いは母が口伝(くでん)されたものの、伝統的な製法に関するノウハウは伝えられることがなかった。