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トップの生き様2013年11月号
葛藤と相克が人間力を養い、求心力を生む 先代を乗り越える社長の器(株式会社コバック・社長 小林憲司氏)
徐々に蓄積した父に対する甘え
1959(昭和34)年、私どもは自動車整備業「小林モータース」として事業をスタートさせた。35(昭和10)年生まれの父・正一(まさかず)は、24歳で創業したことになる。生家は名古屋市内の地主で、兄弟6人のうち起業したのは父だけだったから、四男とはいえ、独立心が旺盛だったのだろう。長男である私が見ても、弁が立ち、押し出しの強い風采は頼もしく、いかにも叩き上げの工場経営者といった風情がある。高度経済成長期を背景に、母・利子と夫婦二人三脚で堅実な経営を続けてきた。
私は63年生まれで姉が1人いるが、仕事柄もあり、父と母にとっては、やはり「跡継ぎ」という意識が強かったと思う。「継いでほしい」というはっきりとした言葉を聞いた記憶はあまりないが、毎日、作業着を油まみれにして働く父と夜遅くまで帳簿に向かう母の姿を見ていれば、自然と両親の期待は感じられた。小学生のころには、将来、自分も自動車の下にもぐって、作業着を油まみれにするのだろうと思っていた。
82年、県立豊田工業高校自動車科を卒業した私は、2年間、住み込みの社員として他社で修業し、20歳で小林モータースに入社した。父も創業前、自動車整備工場の住み込み社員として修業していたというから、私も同じ道をたどったことになる。だが、当然ながら、父と私とでは時代が違った。
父が過ごしてきたのは、わが国におけるモータリゼーションが幸福な発展を遂げた時代であった。ちょうど父が生まれた年、トヨタ自動車の前身が自動車の製造を開始しているのは、象徴的な出来事だと思う。
ところが、私が入社した80年代半(なか)ばの自動車業界は成熟産業で、整備工場の数もすでに飽和状態だった。加えて、国産自動車は世界で最も故障しにくく、整備工場は昔ほどお客様から必要とされなくなっていた。そのころの私どもは従業員5名、年商9,000万円ほどの零細な町工場である。事業が先細るのは確実と思われ、私の代で家業を潰すのは容易に想像できた。私にとって、それは耐えられないことだった。
父のもとで働くようになってしばらく経つと、私はお客様を増やす方法ばかり考えるようになった。しかし、知人の紹介で得られる修理や車検のお客様の数など、たかが知れている。私は勇気を振り絞って飛び込み営業を始めたが、3日間、訪問を続けても収穫はなかった。折り込みチラシも配布したが、1件の問い合わせもない。その後も思いつく限りの方法で集客に努めたが、反響はなく、私は途方に暮れた。
だが、万策尽きたと思われたころ、思い切ってオープンした「車検センター新豊田」が繁盛店となった。これは業界の常識を覆(くつがえ)す新業態で、のちのコバックの原型と言える。車検の店頭販売に特化し、料金の明瞭化やメニュー化、車検の完全予約制など、徹底したお客様本位を実現したところ、年間の車検台数は3年間で7倍に成長したのである。オープンした87年、私は23歳だった。
入社してからの3年間、何かと新しいことばかりやりたがる私を見て、父はどう思っていたろうか。当然、何をするにも許可が必要だったから、そのたびに父と話し合ったが、すんなり許してもらえたことは1度もない。考え方そのものを否定されたり、ときにはひどく怒鳴られもした。とくに、「車検センター新豊田」には強く反対されたが、それでも根底には親子の信頼関係があって、私の若気(わかげ)を危なっかしく感じながらも、経営を危機に陥れさえしなければ、最終的には好きにさせてやろうという親心で許してくれたのだと思う。
ただ、そのころの私にはまだ父の苦悩も覚悟も察することができず、とことん話し合えば真意は通じるという楽観的な手応えが、知らず知らずのうちに父への甘えを育てていたのかもしれない。やがて、その微妙な認識の差が父との決定的な衝突を招く。92(平成4)年、私がFC加盟店による全国展開を提案し、押し通したときだった。