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  • 経営理念2013年10月

    夢に向かって突き進む この“起業家魂”に学べ!(株式会社マイファーム・社長 西辻一真氏)

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被災農地再生に奔走し社長を解任される

▲大宮マイファーム(さいたま市)。大宮は同社にとって記念すべき関東第1号の農園。週末は子供連れの若い家族で賑わう。

02年、京都大学農学部に入学した西辻社長は、当初、新しい作物を開発する研究者になりたいと夢見ていた。おいしくて人気のある作物をつくって、それを耕作放棄地で栽培するつもりだった。ところが、大学では既存作物の収量を増やしたり、病気に強い種をつくる研究ばかりやらされ、もどかしさを感じていたという。そして、ついに4年生のとき、担当教授に不満をぶつけ、「研究者にはならない」と宣言した。

対して、教授は西辻社長を責めるどころか理解を示した。「それなら、社会を変えるために起業しなさい」。教授のそのひと言で、西辻社長は起業を心に決めたという。社会経験と創業資金を得るため、卒業後、いったんは一般企業に就職し、起業に備えた。

しかし、食の安全が社会問題化するなか、半年で退職。07年にマイファームを設立した。そして、耕作放棄地をどう再生するのか、検討を進めるうちに出てきた言葉が「自産自消」だった。自分でつくって自分で食べる、というシンプルな行為を通じて、土に触れる喜びや作物をつくる楽しさを味わってもらいたい。こうして、体験農園のコンセプトが生まれた。

ところが、耕作放棄地を農家から借りるのは、予想以上の難題だった。農村を歩いては、放棄地を見つけると、手当たり次第に農家を訪ねて「貸してください」と頭を下げる。だが、まだ20代半ばの西辻社長を農家は簡単には信用しなかった。農業経験を尋ねられ、「ない」と答えると、相手にもされなかった。

アルバイトや塾の講師をして生活費を稼ぎながら、暇を見つけては農村を訪ね歩いた。だが、ただの1人も首を縦には振らない。あるとき、埼玉県の農家から問い合わせがあった。大喜びで京都から夜行バスに乗って訪ねたが、その農家は西辻社長を見た瞬間、「若い者には任せられない」と拒絶。あきらめきれない西辻社長はその後、8回も通って説得したが、思いは通じず、京都までの帰路、泣き通した。

1年が過ぎたころ、転機が訪れた。京都市内のカフェでマスターの話を聞いていると、農地をもっているという。その場で交渉すると、運よく第1号の契約者になってくれた。ただ、それ以上の収穫は、マスターから農家の本音を聞き出せたことだった。とくに高齢者は、隣地に迷惑がかかるのを恐れ、未経験者に貸そうとしないのだという。以来、農地の相続人である子供世代を交渉相手とすべくインターネットによる募集を始めると、徐々に契約農家が増えていった。

11年3月、西辻社長は仙台市若林区の農家と交渉していた。京都に戻った直後、東日本大震災が発生。交渉相手の農家も被災した。

「心配になって現地に行くと、田畑にがれきが散乱し、塩が浮いている。ここは日本最大の放棄地になったと思ったんです。この放棄地を再生することこそ、自分の仕事だと思いました」

以来、西辻社長は頻繁に被災地を1人で訪れ、塩害除去剤を撒き、農地の再生に努めた。1か月後、ダイコン、トマト、キャベツなどの種を蒔き、順調に育ったことから、西辻社長は話題の人となった。だが、被災地支援にのめり込む西辻社長にマイファームの幹部や社員が不満を抱き、取締役会で社長を解任されてしまった。23人いた社員の半数が「失望した」と退職。西辻社長は窮地に陥るが、被災地支援は続けた。

「私と会社の信条は『できないとは言わない』なんです。被災者に約束したことですから、できなくなったとは絶対に言えませんでした」

ある程度、被災地支援の区切りがつき、13年5月、西辻社長は社長に復帰した。社員数も、ほぼもとに戻り、13年度の売上は3億9,000万円と倍増を見込む。

大ボラ吹きと思われそうな目標を掲げながらも、逆境にめげず、目の前の仕事を着実に成し遂げていく。西辻社長は、若者らしい行動力だけでなく、地に足の着いた安定感を感じさせる新しいタイプの経営者として、農業に新風を吹き込んでいる。



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(株)名南経営コンサルティング
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